今回も前回の続きで・・・
小泉首相も大好きな
ザ・キング・オブ・ロックンロール
エルヴィス・プレスリー
3度目の登場です。
1954年7月10日。 サムはエルヴィスたちの録音をデモ用のアセテート盤にして、
友人であるラジオDJのデューイ・フィリップスに届けました。
デューイが10日に彼の番組で「ザッツ・オール・ライト」を流すやいなや
アンコールを求める電話が殺到し、
デューイは番組の中で同じ曲を7回も繰り返しかけることとなってしまいました。
そしてラジオ番組の中のインタビューで、エルヴィスがヒュームズ高校出身だと話しました。
それを聞いたリスナーはそこで初めて、エルヴィスが白人であることを知りました。
そう、ラジオから流れたエルヴィスの曲や歌声を聴く限りでは、
エルヴィスは黒人だと思われていたのです。
いつの時代でも新しいことを始める時は周囲の反感を買うもので、
エルヴィス・プレスリーも例外ではありませんでした。
人種差別がまだ残っていたこの時代、黒人のように歌うエルヴィスに対して、
権力・メディアはこぞって「下品・卑猥」と中傷し、石を投げ付けました。
しかしそんな声をよそに、地道なライブ活動などを通して、
エルヴィスの知名度はどんどん広まっていきました。
そんなエルヴィスを支持したのは
第二次世界大戦後に育ってきた”まだ無知とされる若い民衆”と
”無知な野蛮人”として歴史的に長い間、排斥されていた黒人でした。
そしてこの地方で起こっている騒動が、やがて大手レコード会社にも届き、
向こうからエルヴィスとの契約を求めてきました。
1955年11月21日、RCAビクターがエルヴィスの契約をサン・レコードから、
当時としては破格の35,000ドルで買収する契約が成立しました。
そしてエルヴィスは21才の誕生日直後の1956年1月27日、
「ハートブレイク・ホテル」でついにデビューしました。
この曲はデビューシングルにして8週連続全米ナンバー1という快挙を成し遂げます。
そして最終的にこの年は「ハートブレイク・ホテル」を始め「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー」
「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「ラヴ・ミー・テンダー」など立て続けに全米ナンバー1ヒットを連発し、
年間52週中なんと約半分の25週はエルヴィスがシングル・チャート1位を独占するという、
とてつもない金字塔を打ち立てました。
次回の最終回に続く・・・